كيف نكتب كحياتنا؟

 考えることと文章を書くことが好きで、毎日何か書いてないと落ち着かないくらいには筆記ジャンキーなのだが、しかし筆記するということは考えることほどすらすらと出来ることではなくて、それなりの抵抗が伴う。抵抗というのは大袈裟な言い方だけれども、立て板に水を流すように物を書くということはどうやっても出来そうになくて、机に向かってもやっぱりペン先で紙を掻いている時間が長い。大体何を書く時でもそうで、取りあえず書き出してみるしかない。書いている内にレールが敷かれて、あとは走り出すだけだというタイミングが来る。その後は速い。飛ぶように筆が進む。そうなったら楽しい。あるのは快感だけだ(勿論、書き上げてから読み返して赤面するんダケド)。

 ただ、これってちょっと問題で、快感の前の苦しい時間をもっと大切にしなきゃならない。オナニーほど見苦しいものはないから、オナニーしてない時間を大切にしないといけない。そういう時間には何を苦労しているかと言えば、「何を書くか」で悩んでいるのだ。それは大事なテーマだ。でも、もっと見落としがちで、もっと大切なことがある。

「どう書くか」だ。こんなものは、書いてるうちは考えられない。息をしながら「息ってどうするんだろう」なんて考えられないのと同じだ。考えるには、息を止めてみないといけない(同様に「どう考えるか」は、考えるのを止めないと考えられないのだ)。

 こんなに大事なものは無い。

 最近そう思うようになった。

バイト先には色んな人が居るようなんだけど、今日会った人はとっても面白い人だった。Dwshsh大学の文学部で歴史学を学んでいるらしいのだが、気が付けば歴史哲学をやっていたらしい。その人いわく、歴史は経済的な動機に駆動されて構築される物で、それをあらゆる歴史学者は自覚してないといけないんだそうだ。経済だって、怖いなーなんて思ったけど面白そうだったので色々話した。けっこうドライな人生観の人で、「あたしこの前、ショーペンハウアーに似てるねって言われたんですよね」とか言ってたので「それ絶対誉め言葉じゃないっすね」て言っといた。その人はあんまり大学院に行きたい訳じゃなくて、就職しはるそうだ。何でかと言ったら、それは自分の理論を実践してみたいんだって。

 へー。

 格好良いなあ(意味わかんなかったけど)。

 そういえば先輩が以前呑みの席で力説していた。論文を書く上での心構えというか、何というか。「学問的な精密さの基準に耐えうるものでなきゃいかんのは勿論だけど、一般の人が読んで面白いと思うようなもんでなきゃいかん。そういうもんでなきゃ」と。含蓄が深いな。特に倫理学という分野はそうなんかもしれんけれども。

結局、そうなのだ。

 結局、ある面では小説や曲と同じなのだ。社会をきっちり感覚して、咀嚼して、出力する。小説家やミュージシャンとやってることは変わらないのだ。一生かかっても読みor聞き切れない名作が世の中にごろごろしているのに、何故新しい物を創る人間が食っていけるのか。社会に応答してるからだ。新しいということ自体が、古くないという意味ではない意味において、価値を持つからだ。皆そうだ。あとは表現の違いだけ。

 ただ、息をしようと意識するとうまく息できなくなるのと同じで、んなもんは出力しようとしたって上手く行くもんではない。そんなもんは生きてる根っこの所からじゅるじゅるっと滲み出てくるのをぴちょぴちょ汲み出すしかない。つまるところちゃんと生きるしかないのだ。でもちゃんと生きるって何かと言えば、それはぐるぐるしちゃうのだ。定義が。ぐるぐる循環しちゃうからだ。ぐるぐるは辛い。そういう時は、オナニーしてしまうのも一つの手だ(広義には『論語』や『聖書』などを読んで感銘を受けることも指す)。でもやり過ぎは良くない。し過ぎると汚いのが皆の顔にかかってしまう。望んで浴びに行く奴もいるみたいだけど、それで良いじゃないかって言われたらそれまでだけど、たまには素面に戻る必要もあるんじゃないかと思う。

 気持ち悪い段落になってしまった。

 

 でも何かを書くとか話すとかいう行為は全部それだ。というか行為は全部それだ。やけっぱちに近い勇気が要るのだ。公衆の面前でオナる勇気。記事を書いた後に「公開する」をクリックする勇気。人間それができなくなったら後は死ぬしかないのだ。だから俺は「公開する」を押すぜ。「公開する」は押した後に「後悔する」になりますが

 

  射精全開!みたいな文章になってるのに、書いてて最後まで1ミリも気持ちよくなかった。何だこりゃ