唐突に再開

やっぱり日々文章を書くことは大切だなと思い直したのでもう一回日記みたいな細かいところから始めた。卒論を書く際の心理的抵抗も減る筈。じゃあはやく卒論を、せめて下書きだけでも書き始めろよと言われるとぐうの音しか出ない。ぐう。

 

 でもワオには日記らしい日記というのは書けないかもしれない。日記を書ける(書き続けられる)人、凄く偉い。ちっちゃい頃に母親に日記帳を買ってもらったことがあって(彼女こそ日記を書くような人生とは対極な生き方をしている人なんだけど)、三日くらい書いてみたけどやめちゃった。やめちゃったのを覚えているのは、それからずいぶん経った後、小学校六年生ぐらいの頃に、凄くむしゃむしゃすることがあって、その書きかけの日記帳が本棚にあったことを思い出して、何か書いてみるかと思って開いたことがあるからだ。そしたらほんとに最初の数行しか書いてなかったから、これ幸いと残りの99%の余白を黒で塗りつぶして、ビリビリに引き裂いてマンションの七階から捨てた(むしゃむしゃの解消のため)のを覚えている。しかも、日付の最初に書いてあったのが、「どうして朝にするおしっこは黄色いのに夕方のは透明なんだろう」とか、確かそんな感じだったと思う。馬鹿だ~~。

 

でもやっぱり続けないと……これから厳しい日々がずっと続いてくんだろうし。緩い感じでもいいから。小説とも呼べないような小説を書くのを断続的に続けているけれど、ネタが無くなったらそれを上げてみるかもしれない。

・最近のニュース:ワイヤレス(激安)イヤホンを買った。赤いヤツ。買った理由は色々あるけど、使わないときに耳から下げてる大学生がなんかイケててかっこよかったからだ! バイト先とかでよく見るので俺も欲しかったのだ(バイト先、なんかイケてる人が多い)。使ってみると、やっぱり結構便利。友達が言ってた「出先で音楽聴く障壁が凄く下がるよ」ってのはホントだ……。でもitunesとかまだ登録してないので、勉強するときに集中用にyoutubeの「脳に良いモーツアルト(ほんとうに おばか)」とかばっかり聴いてる。結構イケる。首にぶら下げ始めてカラ三日ほど経ちますがまだ誰にも「おっイケてるね~」って言われてないので、皆「おっイケてるね~」って言ってください。馬鹿だ~~

 

・最近思ったこと:ベンキョーを勧める時に「分からないことが分かるのって楽しいよ!」って言いまくる人にはあんまり賛成できんな

それは結局「分かってたことを言ってもらえる」楽しさなのでは……と思ってしまうなむしろ分かんないことを聞く楽しさの方があるのでは?と思い松。

 

 

・今日やったこと:マクダウェル『心と世界』を読み進めた。あんまりベンキョーできなかったので明日からまた頑張り直さないといけない。反省してます。毎日反省!!(全然してない)

 

・明日やるべきこと:

『心と世界』を読み進めること

デイヴィッドソンの論文『on the very idea~』を読むこと

『Life and Action』を読み進めること(来週の読書会、僕がレジュメ担当なのにまだ全然読めてない)

フランス語の勉強(二課進める)

アラビア語の勉強(月4の小説二頁、木4の論説文の予習を出来るとこまで)

2018/11/07

 今日は朝からバイト。二時間。

 大学戻ってアラビア語。城攻めの話。「攻城戦に失敗したら不名誉になるから絶対落とせる城だけ攻めろ」とか「逆包囲に気を付けろ」とか色々おもろい。

 飯食ってケア倫理のレジュメ。途中で睡魔。

 kym先生の西洋史。ブルクハルトとニーチェディレッタンティズムの大切さ。おもしろい

 終わった後、yshyさんとchjさんとかふぇこれで読書会一回目。David Lewis のAtitudes de dicto and de se。めちゃめちゃ面白い。様相実在論を徹底するなら態度の対象にはproposition命題ではなくproperty性質を用いる方が良い、という議論。しかし!様相実在論を採っているのは世の中でDavid Lewisただ一人なので、この論文は彼の独り相撲に過ぎないのであった……。それでも面白い議論をしているのが凄い所だ。特にhaeccseitistsこのモノ主義への論駁の精緻さが凄まじいなと思った(こなみ)。chjさんとも沢山喋れた。

 2140分ごろに読書会が終わって、そこから学習室24。明日のアラビア語の予習。かわーきびー。構文が難しいぞ、ぞ、ぞ、ぞ……。

 

 明日も朝からバイトなので寝る。

2018/11/6

 しんどすぎて更新をサボっていた。今日もしんどいし明日も早いけどサボり続けるのも良くないから鋼鉄の意思で書く。

 

木曜日。何故か女子会に呼ばれる。夜三時まで。

金曜日。バイトの全社ミーティングの後師匠の主催する講演会へ。飲み会。

土曜日。師匠の呼んできた先生方と一日中京都観光。楽しかったけど疲れた。

日曜日。冬服を採りに実家へ。しんどくて昼寝。ぐったり。

月曜日。日本史休講。ペルシア語の予習。バイト。行為論の読書会の予習。

今日。ペルシア語。倫理学特殊講義、行為論の読書会の予習。師匠とお話。晩飯はmkzn、kwkmさんとケニア。行為論の読書会の予習。徳倫理のレジュメ。「徳倫理と儒教」とかいうステレオタイプ満載の文章を激おこしながら読む。

寝る。明日は六時起き。

2018/10/31

 昨晩の夜更かしのせいで朝一番のバイトに行くことは断念。前日までシフトをいじれるバイトで良かった。

 朝起きてアラビア語兵法書を読んでいるが、野戦から攻城戦の記事へ。読み物としては面白いが、果たしてこれが役に立ったのか??結構疑問……昼飯。skn君などと。ちょっと勉強してからバ先へ。オリエンテーション。それから大学に戻って来て古書市。五冊くらい買う。千円で買った本が別の所で五百円で売られているのを後から発見。とほほ。それからkym先生の西洋史。面白いが人少ない。wkbyshと食堂で一緒に飯。近況とか、雑談とか。図書館で勉強。ケア倫理。駄目だろと思う箇所が多い。「これはパターナリズムじゃない」と再三主張しておられるのだが、区別がつかん。俺の読みが足りないのか。

 2330まで粘って帰宅。払い込みを忘れていた。風呂に入る前にコンビニに行って済ませる。一瞬で金が消し飛ぶから悲しい。

 家でクィアスタディーズ関連の本を一寸だけ読み進める。眠くなってきた。うんこして寝る。

 

2018/10/30

 今朝は七時半起きでごみ捨て。ちょっと二度寝。起きてから大学。ペルシア語。ちょっと調子よかった。昼はお弁当。その後mztn先生の特殊講義。徳倫理はどうやって相対主義を回避できるか。その後師匠のアラビア語。予習はめっちゃ進んでたし余裕やろーって調子乗ってたら訳読で躓いて悔しい思いをした。雪辱の機会は一週間に一回しか回ってこないのだから、もっとまじめに取り組まなきゃ。反省。

 その後いったん家に帰る。帰り道tkbyshさんと一緒になって話しながら。tkbyshさんの彼氏が俺の今の家の入居前清掃のアルバイトをしていたとか言う笑劇の事実が発覚。五秒で荷物を取って前の家へ。大家さんに鍵を渡す。もう二度とあの家には入れないんやなと思うと辛いものがあるな。一年半住んでいたし、思った以上に愛着がわいていた。

 大学に戻ってアラビア語の予習などしながら時間を潰す。1830から読書会。ポストコロニアリズムがようやく終わる。ポスコロ、ちょっとmztn先生の授業と同じような話になるけれど、やっぱり「知らず知らずのうちに誰かの声を勝手に代弁してしまっていること」という方に問題意識の力点は置かれているのだろう。俺が何かを言うということは、俺以外の誰かの口を塞いでいることになるのだぞ、拳拳服膺せよ、という話だ。みにつま。

 tkrkさんと夕飯。サイゼリヤで間違い探し。その後図書館で予習。2200に追い出されたけれど切りの良いところまで学習室24で粘っていたら2320になっていた。うんこして帰る。

 

どうでもいいが学習室24の日常的な呼称は統一見解が定まっていないように思う。「にじゅうよん」「にいよん」などと呼ぶ人も居る(俺は「にいよん」派)が、「トゥウェンティーフォー」派も少なくないようだ。ジャックバウアーじゃん。

 

帰ったら前に皆と買いに行った宝くじの番号を確認。三百円しか当たってなかった。とほほ。

 

もうちょっとだけケア倫理の論文読み進めて寝よう。明日は朝からバ。演習発表の準備は亀の歩み…………やばやば。

2018/10/29

 今日は八時起き。インスタント麺をずぞぞーっと食ってから大学。九時から読書会。先週まで土曜日だったのに今週から月曜日になっちゃった。法学部の女の人が初参加。ローマ法を勉強してはるらしい。情動主義と指令主義。準実在論の解釈で一時間以上もたつく。

 

 昼飯はお弁当。sygにUSBチップを貸す。三限の授業に行ったら休講だったので図書館でペルシア語の予習。sygにUSBチップを返してもらう。金貸してることを忘れていた。

 夕方、hktn先生のヘノロジーの授業。yshyさんから読書会の資料が送られてくる。読まなきゃ。

 図書館のパソコンルームでジェンダー論のPDF資料に目を通す。夜、食堂に行ったらTUが居たので一緒に飯食う。図書館に帰ってアラビア語の予習。演習の発表に使えそうな資料の本を借りて帰宅。ケア倫理のレジュメを作るために論文をフゴフゴ読む。進まない。

 

やるべきこと

・読書会の資料を読む

・読書会の資料を読む

・読書会の資料を読む(三つも!)

ジェンダー論のレジュメを作る

アラビア語の予習をする

アラビア語の予習をする

アラビア語の予習をする(これも!)

・ペルシア語の予習をする

・ケア倫理のレジュメを作る

・演習発表の準備をする

・バ先のおりえんてーしょんの資料を読んでおく(昇進するから仕事が変わるらしい)

・前の家の大家さんに鍵を返す

・前の家の電気料金を払い込んでおく

・今の家の電気料金の口座振替手続きをする

 

 

結構忙しいな…………。もう寝る。

ブログ更新しました(←a performative statement)

 俺が俺の師匠(勝手に呼んでいるだけだが)岡先生とはじめて個人的なコミュニケーションを交わしたのは一回生の後期、確かNFの頃だったのだが、当時は師匠の言葉にちょっと反発を感じていたことを今でも覚えている。

 アラビア語を学ぶにあたって、日本人である俺等にとって最も身近な「アラブ」というと、やっぱり「テロ組織」とか「原理主義」になる。だから、自然アラビア語の授業もそういう話題に触れることが多くなる。特に当時はまだまだIS(アラビア語では『イラク及びシャームにおけるイスラム国家』を意味するアラビア語の頭文字を採ってداعش”ダーイシュ”と呼ばれる)の勢力が盛んで、連日報道されていた時期だったから、それに関連する動機で受講していた人も多かったと思う。そういう時に師匠は、――当時の僕の感覚からすると――かなりそういったテロ集団に同情的な物言いをしていたのだ。つまり、彼らのやっていることはとても非道徳な許されない振る舞いであるけれども、それでも、彼らがそのような行為を起こしたのには相応の理由があるのであって、彼らをして凶行に走らしめたその事情をくみ取らねばならない、という主旨のことを言っていた。

 これが当時の俺にはよく分らなかった。いや、言ってはることは分かるんやけど。それが正しいのも分かるんやけど。しかし彼らの動機はどうあれあんなに酷いことをしているじゃないか。それは紛れもない事実じゃないか。「許されない振る舞いではあるけれども」などと「けれども」で予防線を張ってんじゃないよ。それは「許されない振る舞い」じゃないか、とさえ思っていた訳だ。

 その後師匠と色々話したり、何年か師匠を見続けている間に、俺の見解は随分変わってきた。ありていに言えば師匠の言い方に賛成、というか、何故そういった視点が大切なのかを知らず知らずのうちに内在化していたのだ。けれども、それが「何故なのか」についてはきちんと自覚してこなかった。

 

 

 最近それを自覚させられる機会があった。

 

 それが、IS以来久方ぶりに日本人が僅かながらも当事者性を以て「アラブ」に接した出来事――安田純平さんの解放だった。

 かれに関しては、報道当初から議論が白熱している。国の意向を無視して敵に捕まり多大な身代金を出費させた「愚か者」なのか、単身敵地に飛び込み真実を追った「英雄」なのか。むろん、論点はそれだけに留まらず、かれは本当にテロ組織に拘束されていたのかという真偽の面から、報道の在り方、ジャーナリストとしてのあるべき姿、ナショナリズムの是非など様々な方面へ広がり、喧しさは一時よりは落ち着いたとはいえ、この文章を書いている時点でもまだまだ世論を騒がせている。

 

 しかし、俺が気になっているのは、そうした議論におけるいずれかの立場にコミットすることではなくて、寧ろそうした様々な立場の何れもが見落としているようなポイントがあるんじゃねーの、ということだ。

 

 そのポイントというのは、テロ組織の側の視点だ。

 即ち、ほとんど誰も「安田さんを拘束した組織はどんな人々で、どのような事情でかれを捕まえ、何故このタイミングで解放したのか」ということを問題にしていないのだ。SNSやテレビでこの問題を語る人が話題にするのは「安田さん」であり、「安田さんがテロ組織に拘束、解放された」という形式の語りでしかない。「テロ組織が安田さんを拘束、解放した」という仕方で語っている人はほとんどいないのだ。

 これが示唆するのは、自然現象とのアナロジーじゃないかと思う。自然現象は能動態にできない。たとえば「吉田が洪水に流された」とは言えるが、「洪水が吉田を流した」というのは修辞的な言い回しとしてしか成立しない。これに対し行為者が人間なら、普通は文章の交換が成立する。たとえば「吉田がドSなお姉さんに監禁された」と言える場合、「ドSなお姉さんが吉田を監禁した」と言い換えることに不具合はない。

 むろん、安田さんの場合も同様のはずだ。にもかかわらず能動態の語りをする人が見られないという現象は、この問題を扱う人が「テロ組織による拘束」を「自然現象」あるいは単に「不幸な出来事」という眼差しで観ていることを含意するのじゃないだろうか。その語りにおいて、テロ組織は人格を持った存在としては捉えられていない。従って動機も無い(もしくは問えない)物と考えられている。我々は「何故吉田は洪水に流されたか」には答えることが出来る(雨が降っているのに愚かにも川を見に行ったから、など)が、「何故洪水は吉田を流したか」には答えられない。それと同様に、「何故テロ組織は安田さんを拘束したか」という問いは、答えられない(最初から問いとして成立しないもの)として含意されているのではないか、という危惧が、俺にはある。

 

 それの何が悪い、と言う人が結構多かろう。しかし考えなくてはならないのは、そのような人は当然、テロリズムという現象を「出来事」と捉え、自然現象に対するような仕方でテロリズムに対抗しようとするだろうということだ。かれらは、洪水に流されない頑丈な街を造ったり、地震が起きても崩されない堅固な家を建てるのと同じように、テロが起こっても被害を受けない社会を作ろうとするだろう。

 しかし俺たちが目指すべきは果たしてそういう所なんでしょうかね。抑もテロが起こらない社会ではないのか。テロを起こすような人が現れない社会、テロを起こすより他に無いという所に追い込まれるような人が生まれない社会じゃねーのか。そうじゃねえ、という人がいれば辛いが。

 

 話は冒頭に戻るのだが、つまり師匠はそういう視点を危惧してるのではないか、と推察してるのだ。安易な「異文化理解」を常々批判し、「分かろうとすること」「分かった気になること」を手厳しくボコりまくって来た師匠ではあるが、だからといって相手の人格性を否定することを容認していると考える馬鹿は居ないだろう。師匠のボコりには、ポジティブなものが絶対に前提されていなくてはならない。

 

 蛇足で言うなら一番ヤバいのは、皆がこの件を自分の政治的立場を再強化するための道具として消費するだけに終わる、という結果だと思う(そして多分そうなる)。

 

 

 今日は大学の図書館に行ったらなんと閉まっていたので、しょうがないからスタバできゃらめるまきあーとを飲んだ。甘い。その後バイト。どうやら昇進できるらしい。やったー

 それから前の下宿に行って最後のお掃除。とっくに電気は止まってるので大変。夜はyshttsyと新しいお知り合いchjさんとご飯を食べた。楽しい。

 姉貴が公務員試験。明日は朝から読書会。今から予習。