ブログ更新しました(←a performative statement)

 俺が俺の師匠(勝手に呼んでいるだけだが)岡先生とはじめて個人的なコミュニケーションを交わしたのは一回生の後期、確かNFの頃だったのだが、当時は師匠の言葉にちょっと反発を感じていたことを今でも覚えている。

 アラビア語を学ぶにあたって、日本人である俺等にとって最も身近な「アラブ」というと、やっぱり「テロ組織」とか「原理主義」になる。だから、自然アラビア語の授業もそういう話題に触れることが多くなる。特に当時はまだまだIS(アラビア語では『イラク及びシャームにおけるイスラム国家』を意味するアラビア語の頭文字を採ってداعش”ダーイシュ”と呼ばれる)の勢力が盛んで、連日報道されていた時期だったから、それに関連する動機で受講していた人も多かったと思う。そういう時に師匠は、――当時の僕の感覚からすると――かなりそういったテロ集団に同情的な物言いをしていたのだ。つまり、彼らのやっていることはとても非道徳な許されない振る舞いであるけれども、それでも、彼らがそのような行為を起こしたのには相応の理由があるのであって、彼らをして凶行に走らしめたその事情をくみ取らねばならない、という主旨のことを言っていた。

 これが当時の俺にはよく分らなかった。いや、言ってはることは分かるんやけど。それが正しいのも分かるんやけど。しかし彼らの動機はどうあれあんなに酷いことをしているじゃないか。それは紛れもない事実じゃないか。「許されない振る舞いではあるけれども」などと「けれども」で予防線を張ってんじゃないよ。それは「許されない振る舞い」じゃないか、とさえ思っていた訳だ。

 その後師匠と色々話したり、何年か師匠を見続けている間に、俺の見解は随分変わってきた。ありていに言えば師匠の言い方に賛成、というか、何故そういった視点が大切なのかを知らず知らずのうちに内在化していたのだ。けれども、それが「何故なのか」についてはきちんと自覚してこなかった。

 

 

 最近それを自覚させられる機会があった。

 

 それが、IS以来久方ぶりに日本人が僅かながらも当事者性を以て「アラブ」に接した出来事――安田純平さんの解放だった。

 かれに関しては、報道当初から議論が白熱している。国の意向を無視して敵に捕まり多大な身代金を出費させた「愚か者」なのか、単身敵地に飛び込み真実を追った「英雄」なのか。むろん、論点はそれだけに留まらず、かれは本当にテロ組織に拘束されていたのかという真偽の面から、報道の在り方、ジャーナリストとしてのあるべき姿、ナショナリズムの是非など様々な方面へ広がり、喧しさは一時よりは落ち着いたとはいえ、この文章を書いている時点でもまだまだ世論を騒がせている。

 

 しかし、俺が気になっているのは、そうした議論におけるいずれかの立場にコミットすることではなくて、寧ろそうした様々な立場の何れもが見落としているようなポイントがあるんじゃねーの、ということだ。

 

 そのポイントというのは、テロ組織の側の視点だ。

 即ち、ほとんど誰も「安田さんを拘束した組織はどんな人々で、どのような事情でかれを捕まえ、何故このタイミングで解放したのか」ということを問題にしていないのだ。SNSやテレビでこの問題を語る人が話題にするのは「安田さん」であり、「安田さんがテロ組織に拘束、解放された」という形式の語りでしかない。「テロ組織が安田さんを拘束、解放した」という仕方で語っている人はほとんどいないのだ。

 これが示唆するのは、自然現象とのアナロジーじゃないかと思う。自然現象は能動態にできない。たとえば「吉田が洪水に流された」とは言えるが、「洪水が吉田を流した」というのは修辞的な言い回しとしてしか成立しない。これに対し行為者が人間なら、普通は文章の交換が成立する。たとえば「吉田がドSなお姉さんに監禁された」と言える場合、「ドSなお姉さんが吉田を監禁した」と言い換えることに不具合はない。

 むろん、安田さんの場合も同様のはずだ。にもかかわらず能動態の語りをする人が見られないという現象は、この問題を扱う人が「テロ組織による拘束」を「自然現象」あるいは単に「不幸な出来事」という眼差しで観ていることを含意するのじゃないだろうか。その語りにおいて、テロ組織は人格を持った存在としては捉えられていない。従って動機も無い(もしくは問えない)物と考えられている。我々は「何故吉田は洪水に流されたか」には答えることが出来る(雨が降っているのに愚かにも川を見に行ったから、など)が、「何故洪水は吉田を流したか」には答えられない。それと同様に、「何故テロ組織は安田さんを拘束したか」という問いは、答えられない(最初から問いとして成立しないもの)として含意されているのではないか、という危惧が、俺にはある。

 

 それの何が悪い、と言う人が結構多かろう。しかし考えなくてはならないのは、そのような人は当然、テロリズムという現象を「出来事」と捉え、自然現象に対するような仕方でテロリズムに対抗しようとするだろうということだ。かれらは、洪水に流されない頑丈な街を造ったり、地震が起きても崩されない堅固な家を建てるのと同じように、テロが起こっても被害を受けない社会を作ろうとするだろう。

 しかし俺たちが目指すべきは果たしてそういう所なんでしょうかね。抑もテロが起こらない社会ではないのか。テロを起こすような人が現れない社会、テロを起こすより他に無いという所に追い込まれるような人が生まれない社会じゃねーのか。そうじゃねえ、という人がいれば辛いが。

 

 話は冒頭に戻るのだが、つまり師匠はそういう視点を危惧してるのではないか、と推察してるのだ。安易な「異文化理解」を常々批判し、「分かろうとすること」「分かった気になること」を手厳しくボコりまくって来た師匠ではあるが、だからといって相手の人格性を否定することを容認していると考える馬鹿は居ないだろう。師匠のボコりには、ポジティブなものが絶対に前提されていなくてはならない。

 

 蛇足で言うなら一番ヤバいのは、皆がこの件を自分の政治的立場を再強化するための道具として消費するだけに終わる、という結果だと思う(そして多分そうなる)。

 

 

 今日は大学の図書館に行ったらなんと閉まっていたので、しょうがないからスタバできゃらめるまきあーとを飲んだ。甘い。その後バイト。どうやら昇進できるらしい。やったー

 それから前の下宿に行って最後のお掃除。とっくに電気は止まってるので大変。夜はyshttsyと新しいお知り合いchjさんとご飯を食べた。楽しい。

 姉貴が公務員試験。明日は朝から読書会。今から予習。