2018/8/8。ブログ2日目。ちょっとだけ実家に帰っている。

昨晩は暑くなかった。そのおかげで逆に風邪をひいたみたいで、朝起きると喉が痛い。デカい口内炎も出来ているのでどっちの痛みが良くわかんないけど、どうやら両方らしい。かなり辛い。


6時に起きたくせに、午前中何もやる気が湧かなかった。教科書読んでても気がつけば寝ちゃっていた。午前中の進捗はゼロ。昼からやるぞーと思ってたら高校野球を観ちゃう。良くない。


ノロノロと教科書を読む。あとバイトのオリエンテーションで貰ってきた資料を読む。初回のお仕事までに読んでおかなきゃいけないらしい。アラビア語の勉強をやる。


明日は京都に帰って先生とバイトのお話。夕方にリョータロー君と東京へ行く。

特筆事項の少ない日だった。



ついったで面白い話を見つけたので、自分なりにコメント。どっかの大学のミスコンの人が「エモいとかヤバいとか連発するな。もっと精密な表現をしろ」というツイートをして話題になってるらしい。それに対し「古文でも『いみじ』とか『あはれなり』とか多義語沢山あるじゃん」という反論が上がってるみたい。確かになかなか有効な反論に見える。これに再反論するにはどうしたらいいのか。ちょっと整理してみる。


①「イマドキの多義語と古文での多義語は何らかの仕方で有意味な違いを持つ(∴上記の反論は有効でない)」とする立場。

一番先に思いつく奴で、ちょっと見た感じ、元ツイートのミスコンの人もこの立場らしい。でもこれは結構論証が難しそうである。ミスコンの人も有効な論証が出来ていない感じだった。


そこで逆転の発想。

②「イマドキの多義語と古文での多義語には有意味な違いがない」とする立場。

その上で、

⑴「だから私はどちらも嫌いなんだ!皆はっきり言え!」という立場。


⑵「いやいや、日本語というのは近代に変革を経験したでしょ。それはあのやうな曖昧極まりない、唾棄すべき多義的表現に頼らざるを得ない未熟な言語から、明瞭な表現を行い得る成熟した言語への進化だったわけですよ。その恩恵を受けた現代の我々はすでに明瞭な表現ができる言語を用いられるのだから、精確な表現をしようではないか」という立場。


⑶「あのような多義的表現の使用が許されるのは、教科書に残るような傑出した言語センスを持つ著作家の遺した名文だけであって、そこには多義表現を使わざるを得ない明確な事情というものがあったの!彼らはそれを使わなければどうしても表現できないものを表現したかったから使ったの!そうでもないただのアホ大学生たかがついったーの文章如きに甘えとして多義表現なんかを使うのは許せんわい!剰えそれを盾に自己擁護しようなどと…言語道断!叩き斬ってくれるわ!」という立場。


取り敢えずこんなところか。⑵は相当検証が必要である。主張することは出来るがかなり怪しい。⑶は一見尤もらしいし、賛同する勢力も多そうだが、しかし反論も強いだろう。ついったの場合、厳しい字数制限というかなり大きな「已むを得ざる事情」があるので、同じ論法を用いて「エモい」の多用を擁護することも可能だろう。俺が一番好きだし強いと思うのは⑴だが、趣味に関する主張になるので多くの人の賛同を得るかどうかは不透明。でも昨今「言いたいことははっきり言え」って意見が支持されてる気がするので、案外イケルンジャナイカナ。


どーでしょう、ミスコンのお姉さん。