上昇気流を見つけるんや!
以下の内容の要約
・俺は情緒不安定なときにブログを書く。
・アラブがやばい。
・俺には経験が足りない。
日記の更新が滞ってしまって、極力しないことに決めた筈のついったでわけのわからんアラビア語のツイートと熊本県営業部長の定期ツイートを皆のタイムラインに漏洩することでのみ生存を主張しているような感じになってしまってますが、かと言って「あいつもうブログ止めたんか」と思われるのも癪なので、何かしらは書かないと。
というかこのブログを書き始めたのは別に自分が普段どんな醜態を演じながら漫然と寿命を削っているのかを衆目に晒すではなくて、将来多少記事が溜まった暁に、――その頃には俺も多少なりとも大人になっていることが見込めますから――曾て自分がどんなことを考えながら日々を過ごしているのかを顧みるために書いているのです。言わば徹頭徹尾自己中心的なものであって、他の人が読むか読まないかなどは二の次なのだ。そういう意味でも書いた方がいいんだ! continuationはpowerなんだー!!
でもそんなに息巻いてみたところでホイホイ書くことがある訳じゃない(だから滞ってるんだ)。「涼しくなってきましたね」みたいな当たり前のこと書いてもしゃーないしな。「今日は制服もののAVで抜いてやったぜぐえっへへっへ」とか書く方がまだなんぼかマシというもの(嘘)。
悩む。ブログのテーマだけでなく、色んなことでよく悩む。僕だけの話でも無くて、世の中の人はみんなどうでもいいことで悩んでいる(かもしれない)。悩むのは別に悪いことでは無いが、心の高度が下がってくる。
心の高度が下がってくる、なんてちょっとカッコつけた言い方をしたのは、グライダー競技のイメージを思い浮かべているからだ。
グライダーは自分に動力が無いから、飛んでいる内に少しずつ高度が下がってくる。当然、下がり切っちゃうと失格になるor死んじゃうから、上昇気流を捕まえて高度を稼がなければならない。グライダーは一旦、熱上昇気流(サーマル)の中に入って高度を上げ、新たな場所を目指して飛び立ち、高度が下がるとまた上昇気流を捕まえて高度を回復する、ということを繰り返す。
普通に考えたり生きていたりすると、だんだん高度が下がってくるので、僕たちも定期的にサーマルを捕まえなくてはいけない。その方法が人によっていろいろあって、たとえば「アニメを見る」とか「旅行する」とか「ライブに行く」「寝る」「食う」「裸で走り回る」「セックスする」だったりするのだろう。このブログも、漫然と始めたものではあるけど、俺にとってのサーマルみたいなものの一つになればいいな、と思ってもいる。
だから俺がブログを上げてないときは「この三日坊主め」とか「死んだんかな?」とか思うのではなくて、ああこいつは今十分な高度を飛行しているんやな、心配せんでもええんやな、と思っていてくれルと嬉しい、ということ。
なの、だが。
サーマルは常に同じ位置にあるのではない、ということがミソだ。だからパイロットは飛行の度に空を読んで適切なポイントを探さなくてはならない。俺も同じで、これをすると必ず回復する、という特効薬のようなものが無い(もしくは不幸にしてまだ見つかってない)。そういうのを持っている人もいるが、俺はその限りでは無い。だから常にスポットを見つけてフラフラ動き回っている。
別にこれは落ち込んだ気持ちをリフレッシュさせる方法、というだけの話ではなくて、広く行為一般に言える話だ……飽き性(*´▽`*)。ある一事にのめり込んで、それで以て語りつくせるような人生を生きる、というタイプの人に憧れるけど、俺にはちょっと出来そうにない。テーマは出来るだけたくさん欲しい。少ないと不安だ。孟嘗君の食客にフウカンという人が居て、「兎は三つ巣穴を掘ると言います(一個が壊れても安心できるから)。貴方にあと二つ穴を作ってあげましょう」と言った話があるが、俺にも欲しい。
不安だ、というのは、今吹いている上昇気流がいつ何時消えてしまうか分らない、ということであって、それは自分がよーわからんということだ(むろん飛んでるのだけが自分なんではなくて、空も自分なのや)。せめて願うのは、発動機が欲しいとゆーことだ。もう、定格出力200phくらいの奴で良いから。どこかで売ってないかな、あと二、三年の内にゲットしなくてはいかん、と思いながら彷徨い続けている感じ。
それだけで一記事を終わらせるのはもったいないので、ちょっと書く。
ついったにも書いたけど、今ヨーロッパではイスラム女性のヴェール問題が加熱している。あんまり真面目に追っかけてる訳ではないので、社会の雰囲気というか論調とかは全然分らないんやけど、結構論理としてはガバガバな議論でヴェールを禁じてるような気がして、うーん、移民に対するヨーロッパの感情とゆーのは根の深い物があるよな、という気もする。そりゃ確かに、移民というわけのわからなさを含んだ「他者」の典型的な存在が、「顔」を「隠して」いるのは、かなり象徴的な現象として映るんだろう。特に眼と眼、顔と顔を突き合わせて語り合うことを重視する欧州の社会(?よー謂われるけどホンマやろか?)では。中東がもし、地理的に東アジアに近かったらどうやろう、と思わないでもない。ここまで問題視されてないんではないだろうか。わかんない。
素人意見だけど、シリア関係の政治情勢については、ロシアの軍用機機撃墜事件が結構大きな影響を及ぼしているっぽい。墜落した直接の原因はシリアのSAMによる誤射なのだが、プーチンが口を極めて罵ったのは何故かイスラエルだった。最初は混乱したが、どうやら事前にイスラエル機が近傍で作戦行動を行っていて、それがシリア防空網を刺激したという理屈のようだ。まあプーチンはシリア問題についてはイスラエルを牽制したいので、喧嘩をふっかける体のいい口実が見つかったという所なにゃろか。一方でアメリカは中東諸国の代表を招いての会合をしているので……だいぶ構図がはっきりしてきたような。素人意見だけど。でも良いことばかりでは無いなー。
あとは最近ジュディス・バトラーの本を猛然と読んでいる。難しいけど面白いし元気がもらえるぞ(これも上昇や!)。フェミニズムとか性の哲学とかってやっぱり面白いな~卒論はそういうので書くかも(その前に俺が性経験を増やさんと行けない気がするのだが……)何で面白いのかはまだよくわかんないんだけど、色んな人に誤解され過ぎてるのが逆に燃えるのかもしれない。
今思ったけど、アラビア語とフェミニズムって、期せずして俺のアラビア語の先生と同じ道を歩んでいるような気がしないでもない……
大学が始まったら出来るだけ毎日ブログあげるようにするぜ。いぇいいぇい!
كيف نكتب كحياتنا؟
考えることと文章を書くことが好きで、毎日何か書いてないと落ち着かないくらいには筆記ジャンキーなのだが、しかし筆記するということは考えることほどすらすらと出来ることではなくて、それなりの抵抗が伴う。抵抗というのは大袈裟な言い方だけれども、立て板に水を流すように物を書くということはどうやっても出来そうになくて、机に向かってもやっぱりペン先で紙を掻いている時間が長い。大体何を書く時でもそうで、取りあえず書き出してみるしかない。書いている内にレールが敷かれて、あとは走り出すだけだというタイミングが来る。その後は速い。飛ぶように筆が進む。そうなったら楽しい。あるのは快感だけだ(勿論、書き上げてから読み返して赤面するんダケド)。
ただ、これってちょっと問題で、快感の前の苦しい時間をもっと大切にしなきゃならない。オナニーほど見苦しいものはないから、オナニーしてない時間を大切にしないといけない。そういう時間には何を苦労しているかと言えば、「何を書くか」で悩んでいるのだ。それは大事なテーマだ。でも、もっと見落としがちで、もっと大切なことがある。
「どう書くか」だ。こんなものは、書いてるうちは考えられない。息をしながら「息ってどうするんだろう」なんて考えられないのと同じだ。考えるには、息を止めてみないといけない(同様に「どう考えるか」は、考えるのを止めないと考えられないのだ)。
こんなに大事なものは無い。
最近そう思うようになった。
バイト先には色んな人が居るようなんだけど、今日会った人はとっても面白い人だった。Dwshsh大学の文学部で歴史学を学んでいるらしいのだが、気が付けば歴史哲学をやっていたらしい。その人いわく、歴史は経済的な動機に駆動されて構築される物で、それをあらゆる歴史学者は自覚してないといけないんだそうだ。経済だって、怖いなーなんて思ったけど面白そうだったので色々話した。けっこうドライな人生観の人で、「あたしこの前、ショーペンハウアーに似てるねって言われたんですよね」とか言ってたので「それ絶対誉め言葉じゃないっすね」て言っといた。その人はあんまり大学院に行きたい訳じゃなくて、就職しはるそうだ。何でかと言ったら、それは自分の理論を実践してみたいんだって。
へー。
格好良いなあ(意味わかんなかったけど)。
そういえば先輩が以前呑みの席で力説していた。論文を書く上での心構えというか、何というか。「学問的な精密さの基準に耐えうるものでなきゃいかんのは勿論だけど、一般の人が読んで面白いと思うようなもんでなきゃいかん。そういうもんでなきゃ」と。含蓄が深いな。特に倫理学という分野はそうなんかもしれんけれども。
結局、そうなのだ。
結局、ある面では小説や曲と同じなのだ。社会をきっちり感覚して、咀嚼して、出力する。小説家やミュージシャンとやってることは変わらないのだ。一生かかっても読みor聞き切れない名作が世の中にごろごろしているのに、何故新しい物を創る人間が食っていけるのか。社会に応答してるからだ。新しいということ自体が、古くないという意味ではない意味において、価値を持つからだ。皆そうだ。あとは表現の違いだけ。
ただ、息をしようと意識するとうまく息できなくなるのと同じで、んなもんは出力しようとしたって上手く行くもんではない。そんなもんは生きてる根っこの所からじゅるじゅるっと滲み出てくるのをぴちょぴちょ汲み出すしかない。つまるところちゃんと生きるしかないのだ。でもちゃんと生きるって何かと言えば、それはぐるぐるしちゃうのだ。定義が。ぐるぐる循環しちゃうからだ。ぐるぐるは辛い。そういう時は、オナニーしてしまうのも一つの手だ(広義には『論語』や『聖書』などを読んで感銘を受けることも指す)。でもやり過ぎは良くない。し過ぎると汚いのが皆の顔にかかってしまう。望んで浴びに行く奴もいるみたいだけど、それで良いじゃないかって言われたらそれまでだけど、たまには素面に戻る必要もあるんじゃないかと思う。
気持ち悪い段落になってしまった。
でも何かを書くとか話すとかいう行為は全部それだ。というか行為は全部それだ。やけっぱちに近い勇気が要るのだ。公衆の面前でオナる勇気。記事を書いた後に「公開する」をクリックする勇気。人間それができなくなったら後は死ぬしかないのだ。だから俺は「公開する」を押すぜ。「公開する」は押した後に「後悔する」になりますが
射精全開!みたいな文章になってるのに、書いてて最後まで1ミリも気持ちよくなかった。何だこりゃ
エッチな表紙のラノベ問題についての雑感
ついったをにぎわせている「本屋にめちゃくちゃエッチな表紙の本が(全年齢対象ではあるんだけれども)並んでいて、決してエロ本って訳じゃないんですけど子供が見ちゃったりするとしんどい思いをするかもしれないし発育上良くないかもしれないし自分自身も結構エロ本とかって不快感あるんですけどそれは置いとくとしても内容がそんなにエロくない話なのに表紙に巨乳なお姉さんの絵を描くって読者のちんこを釣り上げてる編集者の醜い思惑が透けて見えるから自分としては止めて欲しいんですけどそれってどうなんですかね問題」に、図らずも首を突っ込んでしまった。
首を突っ込んでしまった、というのは、本当に正直なところ、そういう本が並んでいるという「現象」それ自体に対する個人的な気持ちを答えるなら「どーでもいい」だからである。僕もラノベとか昔読んでたし、エロ本にもお世話になるし。
けれどもそう言った現象が内包している「問題」じたいは社会の全成員にコミットメントを迫るもので、無関心でいること自体が罪とされてしまうような問題ではある。僕自身、最近フェミニズムとかに凄い興味があったので、「問題」としては気になるものではあった。
でもきっかけになったのは、
「前提⑴:表現の自由は何にもまして担保されねばならない
前提⑵:エッチな表紙の本の規制は、表現の自由を侵害するものである
結論 :エッチな表紙の本の規制は、これを絶対に認めない」
という論証で応答している人を見かけたからで。
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‘ ,,, ,, 久しぶりに・・・・・・
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、 . ’ キレちまったよ・・・・・
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ワイがキレちまったのは、主に二つの面からである。
①結論が正しかったとしても有効な反論になっていない(規制の話をしている訳ではないから)
②前提⑴が間違っている
まあ実際には、上の論法で話をしている奴の態度がデカかったというのが一番の理由んですが。
しかし実際にこの問題に応答している人を見ると、どうやら①でも②でもなく
③前提⑵が間違っている
という主張の人が多いみたいである。いわく、きわどい作品はゾーニング(R-18コーナーに放り込むこと。男子高校生が困る)するとよい。それで表現の自由を担保しつつ、該当書籍の有害性を軽減できる。
確かに、それはそれでとても合理的な選択だと思う。施策としては最も実現が容易なものであろう。しかし、表現の自由というのはそれで担保されるのか? というのは大きな疑問だ。表現の自由に関して話をすると、違憲審査基準とか二重の基準論とかいうワードが頭に浮かぶが、これについては門外漢なので言わない。しかし、場所を区切った一部区画でのみ表現を認めるというのは、実は立法に際してかなりハードルが高い行為なんではないか(例:お前の言説は反社会だから街頭で演説するのは認めん、家の中でなら許可してやる)。ゾーニングの対象および範囲と、ゾーニングによって防止が見込める社会的影響との間に、かなり密接で明白な関係が無くてはならない。
ではゾーニングすることの動機は何かというと、これも大変怪しい物だ。R-18の暖簾によって販売区域を区切るという行為は、18歳以上の人間に自己管理能力・判断能力と責任を期待する行為である。しかし人間の加齢と責任能力に明確な因果関係を証明することは本来とても難しい。ある意味総合判断的な解決として、後付けで「エロコンテンツを見る”責任”とは、18歳以上の成人に発生するものである」と定義づけているに過ぎない。
それはそれで良い。しかしゲームのCERO規定にしたってR-18以外はあくまで「やらないことを推奨する」ものでしかなく、また実際エロサイトを見る場合に出る「18歳以上ですか?」というメッセージも、たとえ3歳児にだって「はい」を押してコンテンツを閲覧することは可能なのだ。この場合、ある意味「『はい』を押す」という行為と引き換えに責任が発生しているのだと考えられようが、しかしそれで良いのか。ゾーニング主義者の守りたいものはそんなもので守れるのか。
ちょっと怪しいんじゃないか?
性欲を、性的搾取の醜悪な部分を開き直って認めるのではなく、現時点では撲滅できないまでもせめて秘すというのは、立派な行為だ。理念としてもこれに優るものは無い。しかし、ゾーニングは本当にそれに当たる試みなのか?一歩間違ったら「臭い物に蓋」になってしまうのではないか。
もう一つの問題点は、現在ある種の創作物に対しては明確な基準を以てゾーニングを行うことが社会的に是認されているということだ。「めちゃくちゃエッチな表紙のラノベ」を新たにゾーニング対象に加えるということは、二重の問題を含むように思われる。
一つは、現在の基準を拡張することへの妥当性。
もう一つは、それが成功したとしても社会的な性の構造の在り方には変化が無いということ。
やっぱり、難しいことを百も承知で②前提⑴が間違っている という作戦軸で攻めた方が良いのではないか。表現の自由VSそれ以外の物(プライヴァシー、宗教的文脈、人間の尊厳etc……)という構図は戦略としては目新しさのないものではあるが、②の主張自体は社会一般に広く受け入れられているものであるし、こっちで行った方が良いんじゃないかと思わんでもない。
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2018/8/28
朝からhrgc先輩とサイクリング。二人とも脚が鈍ってるので南湖一周をだらだらすることに。湖岸道路をアベレージ30km/h前後で並走しながら世間話。先輩は院試が終わったばかりなので、院試の話とか、来週先輩が行くヨーロッパ旅行の話とか、人生の話とか。含蓄含蓄。
帰りは裏山中越え。上述の通り二人とも最近自転車をサボってたので滅茶苦茶しんどかった。峠でコーラ飲んで一服。降りてからいったん別れ、家でシャワー浴びてからルネで再会。昼飯と、せっかくなのでパフェを分けっこした。
その後図書館へ。ヴィーコのレポートをやっつける。正直本を読んだだけで何を書くか決まってはいなかったのだが、書き出すとすぐに決まった。デカルトの批判者として有名なヴィーコだけど、幾何学の明証性を肯定し、かつ諸学のうち最も真なる学問に位置づけているという点ではデカルトと同じ(というよりこれは当時のスタンダード)。でも歴史のレポートに取り上げられるくらいなのでヴィーコはデカルトとは違って歴史を凄く大切にしている。でも別にそれは彼が歴史が好きだったからじゃなくて、学をきちんと成立させるにはその発展の論理的段階を網羅的に説明し得ることが必要で(なぜなら彼は真に知り得るものは自ら製作したものと同値だという真理観を持っていたので)、幾何学以外の学問の論理的発達段階は歴史的時間軸をどうしても含意してしまうからではないかとか、しかしそのこと自体が幾何学以外の学問の不完全性を表しているのだが、では何故彼はデカルトのように明証性に欠ける学問を退けなかったのか、とかいうことを書いた。西洋史のレポートになっているかどうかは分からない。
sygと図書館で遭遇、飯。じつはsygとは昨日も飯を食った。ハイライトで同じメニューが被った。今日もルネで同じメニューが被った。sygは今日の夜行バスで東京入りし、共同通信社のインターンに行くらしい。つい先日東京でジャズの大会を終えたところで、東京にトンボ返りという形になるそうだ。インターンの後はすぐにサークルの合宿とかゼミの研究旅行とかがあるらしい。色々たいへんそう。ワイは東京が好きだが、かれは最近慣れたとはいえ嫌いらしいので、何度も東京⇔京都を繰り返すのはしんどそう。将来のこととかちょっと話す。最近悩んでいるらしい。僕も。
飯の後、研究室で読書会。ポストコロニアリズムのフェミニズムについての論文を読む。おもしろい。ワイの興味とも被るし。今日は前半で、マルチカルチュラリズムのとこ。
色々苦闘の様子が見えて面白い議論。相対主義には陥りたくないけど価値の多様性を認めたいから、根柢に同一性を取ってその上に多様性を乗っけるある種の二層構造で対抗するんだけど、色々困難は大きい。一番ヤバいのはやっぱり、看過され得る多様性と看過され得ない多様性との区別の基準が固定化されてしまうことかなあ。
いまだにmulticulturalismとpostcolonialismの違いがよーわかっとらんのだが、その秘密は次回明かされるらしい。
2018/8/24
昨日。
午前に爺ちゃんと会ってから上京。kdm先生のバイトの関係書類を漸く提出!これで金が貰えるぜ。文学部前でmtbさん(学部の同級生)に遭遇。雨降ってくる中を泣きながらバイトへ。台風やばいなー。
5時間バイトした後、帰りはどんなに酷い雨かと思ったら雨あがってて謎。晩御飯はマコゾノとハイライト…の筈だったがハイライトお休みだったので久しぶりのキラメキ。
帰ってから色々勉強。ローラーを40分くらい漕ぐ。新しいタイヤが届いたので、今のやつはもう摩耗を気にしなくていいから思い切り漕げる。でもワイの体力がついていかない。9/29のオフ会は大丈夫だろうか、いやそれより9/15の乗鞍が大変だ、とほほ。
夜、めちゃくちゃ雨降ってきて怖い。風が吹くたびに下宿が鳴動するのがスリリング。誇張なしで震度3くらいはあるぞ。
今日。
起きたら山中越え…のはずだったがダラダラしてるうちに雨降ってきた。しょーがないから朝飯食って読書(ローラーは回さない)。雨は降ってるけど洗濯物の貯蔵がいい加減のっぴきならない量になってきていたので洗濯機回す。部屋干しだが柔軟剤を加えれば臭くはならないという謎理論。
wkkyならびにtndk(どちらも文学部の同級生)とルネで待ち合わせて文学部チャリ旅行の相談。9/1〜3辺り、という大まかな日取りだけ決まったんだけど、果たしてどうなるかな。
そのあとバイト5時間。仕事をこなすのにかかる時間がちょっとずつ減ってきて、昇給の水準に近づきつつある。来月には昇給できたらいいな。あとバイト先で初めて知り合いにあった。バイト先には京大生が多いみたい(実際に働いている人も何人か知っている)。
バイト後、不動産屋で契約書類を受け取る。滞りなく準備が進んでいて良い。
明日は大阪。西洋史と日本史のレポートをそれぞれ一本ずつ今月内に仕上げたいので、頑張る。
合宿行っていました
11時、姫路駅集合。11名。先生二人、センパイ8人(院生四人、学部生四人)、下っ端(ワイ)一人。バスでお宿に直行。たつの市(旧新宮町の辺り)にある国民宿舎。揖保川のほとりです。
着いたらお昼ご飯食べて勉強会。メタ倫理学的相対主義についての論文を読む。5時間くらい?皆で数ページずつ作ってきたレジュメを合体させて皆で読む。む、むずい。去年に出た論文集のやつなので、最先端の議論が載ってるらしい。相対主義についての二つの解釈(形而上学的解釈&意味論的解釈)の話…だと思っていたら後半から意味論的相対主義vs文脈主義の話になり、皆目がぐるぐる。(@_@) 命題の真理値と内容に文脈がどこまで関わるか、という話なんだけど、メタ倫理の専門家も居なかったので、とっても難しい。kdm先生が「面白い分野も沢山あるんだろうけど、全体的にはメタ倫理はオワコンな分野なので、かなり気をつけないといけない」(意訳。誤解の可能性あり)という身も蓋も無いっちゃあ無いことを言っておられた。
「大学名付けないとこれじゃヤバい団体ですよね」と盛り上がる。
風呂。温泉。気持ちいい。キョージュはビールをかっくらってたが、一人で飯の時間まで宿内外を散歩。宿泊客のおっちゃんと少し会話。奈良の人で、毎年この季節に揖保川に鮎釣りに来はるらしい。息子さんが京大地球工だったそうな。びっくり。
飯。宴会。ヤバい。夜2時まで。ゲラゲラ。
おばかトークが大半だが、鉄板のトークと業界トーク、院試のこととか、勉強のこととか、京大学部毎の労働組合事情とか、ディープな話も色々。ゲスい話も色々。
翌朝。頭ガンガン。同室のmkm先輩が布団にこもって起きなかったのでもう一人のセンパイと朝飯を食いに。他の部屋のセンパイも皆起きていた。朝ごはん美味しい。
10時にロビー集合なのだが、9:55くらいにmkm先輩(この頃には覚醒)が「先生絶対起きてないよ」と言い出す。恐る恐るキョージュの部屋の扉をノック。反応無し。ロビーに行ってもキョージュ居ないので、フロントに電話して起こしてもらう。
今日行くところ決めてないので会議。揖保乃糸資料館と太陽公園。「どっち行きたい?」と言われたので、揖保乃糸資料館は昔行ったことがあったから「太陽公園っすかねぇ」と答えた。それもあり一応太陽公園に決定しかけたところ、キョージュ登場
「「おはよーございます!」」
「うっす。今日どこ行くん?」
「取り敢えず、今は太陽公園かなって感じです…」
「どんなんなん」
「こんなんです(るるぶ見せる」
「…………しょーもな(太陽公園の方、すみせん)」
「…………揖保乃糸行きましょか」
揖保乃糸になった。お宿の方にバスで送ってもらう。
懐かしかったし楽しかった。「そうめん伸ばしチャレンジ」というのがあって、俺が6回くらいトライしてようやく、学生で唯一の合格点を貰って有頂天になったのだが、そこに颯爽とキョージュが現れ、なんと一回で合格しやがりはった!教授、「定年後はそうめん職人やな」とか嘯きながらニヤリ。
そのあと、駅(東觜崎駅)まで歩く。昔俺が十二指腸潰瘍を患っていた話で笑いを取っていたら、自転車に乗った地元のjkとすれ違い、「あーイイっすよねー制服制服!俺セーラー服派なんっすよー」とか口走ると、キョージュに「ヤベー奴やなお前」とか真顔で言われる。
電車で姫路駅へ。
なんといっても城。
改装後は初めてだったので、楽しい。mkmセンパイとべちゃくちゃ話しながら廻る。調子に乗ってかなり色んなことを口走った気がする。キョージュと城トーク&ご先祖トークで盛り上がる。
城の跡、姫路駅で明石焼きをご馳走になって解散。話の流れで「好きな女性芸能人」みたいな話になり、更にそこから「セーラー服着た広末涼子or常盤貴子はヤバい」みたいなことを口走り、ドン引かれるのを感じた。
帰り、新快速でビールを開ける。センパイ方は京都まで。ワイは新大阪途中下車で失礼した。
■
いやー、「西郷どん」面白くなってきましたな。今週は有名な薩長同盟締結会談すっぽかし事件。来週、漸く同盟なるか?!というところ。
今日は朝から姉貴と家の内覧。良き良き。大家さんのおばちゃんも良い人。即決。お店帰って諸手続き。親は今日から沖縄に旅行である。めーっちゃたのしそう。
昼は姉貴とサイゼリヤ。姉貴は最近貧窮してるらしい。
せごどん、良い。龍馬さんが薩摩せごどんの家に泊まって、二人でお家の雨漏りを繕いながら語り合うシーンがあった。そしてその後場面は京都二条城に切り替わって、生まれてこのかた茅葺き屋根の修理なんて絶対にしたことない男、一橋慶喜がバーンと映る。ニクい演出やなと思った。「動かざること、桜島の如しじゃ(ドャァ」とかおどけてみせる殿(久光)も可愛い。よーできとるわ。
しかし、なんか明治維新という「革命」にはマルキシズム的な文脈で説明できる匂いが全然しないのが良いなぁ、と思う。本当のところどうなんかわかんないけど、少なくともあの頃暗躍したり京都でバッサバッサ人斬りまくってた侍には「俺らの生活を良くしよう」とかいう動機は全く無かったように思う。かなりクソ真面目に「憂国」とか言うのだ「藩のため」でなくて彼らは(それが全志士のうち1%の上澄みだったとしても)。あの国家意識はどっから出て来るのか。面白いっすね。元寇の時にもちょっと似た雰囲気がありそうな……だって教科書には「戦いには勝ったが恩賞は得られなかったので不満が高まった」とか書いてあるけどそんなこと戦う前からわかり切ってんじゃんね普通の頭があれば。なんかそれ以外の動機が無いとさやってらんないよあんなこと。それが何なのかは分かんないけど。
あと残りの99%ですね。上の1%が「オメー死んでこい」って命令すれば簡単に命を放り出す99% 。でもいかに命令でも、人間として尊敬できる人じゃないとそんなのは聞けないっすよ。士は己を知る者のために死ぬのであって、それ以外の人に「オメー死ね」って言われても死ねないよ。
しかしサムライの社会というのは「オメー死ね」式に出来てる。泰平の世であればそんなことを命ずる必要はないので、凡庸な1%でもやっていける。でもバクマツのような社会じゃとそうはいかなくて、己を知ってくれるような人がエラい所にいないと誰も死ねない。だからサムライの社会ってのは度量のある奴が舎弟を集めるんやなくて、「オメー死ね」システムが先にあって、相応しい奴が必要に応じてそこに座るようになってるんやなあ、と思う。
やっぱり根本的に日本人は割と体育会系なんであろー。しんどいけど。
せごどん、最近またおもろくなってきた。でもこのペースで間に合うんかな。
アラブ、今ホットなのはトルコVSアメリカの経済バトルみたい。しかしエルドアンもトランプも、なんか民主的なプロセスで選ばれたおっさんやということを忘れてしまうよーな梟雄っぷり。
明日から研究室の合宿。姫路だそう。